小学校3年生のころ、私は家庭の中で“のけもの”になっていた。
家族は4人いたのに、なぜか自分だけそこに席がないような感覚。リビングの空気の中に、自分だけが透明人間になったような日々だった。
理由は分からないでした。
勉強ができたわけでもないし、悪い子だったわけでもない。ただ、親の機嫌や大人の事情に、子どもだった自分が巻き込まれたのかもしれない。だけど当時の私はそんな複雑なことを理解できるはずもなく、「自分だけ嫌われているんだ」と思い込むには十分すぎる環境だった。
夕飯の席では、私だけ話しかけられない。
家族が笑っている輪の中に入りたくて近づいても、「あっち行ってて」と軽く言われる。その何気ない一言が胸の奥に深く刺さった。子どもは理由が分からない分、傷はより深くなる。何か悪いことをしたのか、なぜ自分だけ仲間に入れないのか、その答えがないまま時間だけが過ぎていった。
学校では普通の子どもとして振る舞っていた。
友達とふざけたり、給食で笑ったり、放課後に遊んだり。けれど家に帰ると別世界が待っている。そのギャップがつらくて、帰り道がだんだんと憂うつになった。玄関のドアを開ける瞬間、胸の奥が冷たくなるような感覚は、今でも忘れられない。
気づけば、私は“ひとりで生きる力”を早くから身につけていた。
自分で考え、自分で自分を慰め、自分で居場所をつくろうとした。誰かに頼るという考えは、いつの間にか心から消えていた。親に褒められた記憶より、部屋の片隅で一人で泣いた日のほうが鮮明に残っている。
でもその孤独は、悪いことばかりではなかった。
大人になった今では、あの時期が“私の強さの根っこ”になっていることを感じる。
ひとりでも耐えられる。
ひとりでも前に進める。
誰かがいなくても、生きていける。
もちろん、傷が消えたわけではないですが。
「どうして自分だけ?」という思いは、今でもふとよみがえる。けれどその感情も、もう自分を支配するほどの力はない。あの痛みを知っているからこそ、他人の痛みに敏感になれた。誰かが孤立していると感じれば、そっと寄り添いたいと思う。自分がしてもらえなかったことを、誰かにしてあげたいと思える。
小3から始まった“家庭内でのけもの”の時間は、確かにつらかった。
でも、その孤独がなければ今の私はいない。
あの時、ただひとりで戦っていた小さな自分に言ってあげたい。
「大丈夫。あの孤独は、ちゃんと未来で力に変わる」と。
そして今、私はようやく気づいた。
人から与えられる居場所だけが“居場所”ではない。
自分で作った場所こそが、本当の居場所になるのだと。


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