子どもの頃の記憶なんて、普通は断片的にしか残らない。
学校の行事や、遊んだおもちゃ、好きだったアニメ…。
だけど、なぜか大人になっても鮮明に残る出来事がある。
それはたいてい「その後の人生のテーマにつながる瞬間」だ。
保育園の頃、遠戚の家に遊びに行った日のことだ。
見慣れない家。広い居間。知らない匂い。
緊張して端っこに座るのが普通の年齢なのに、
なぜかその日だけは、ふらっと“居間のど真ん中”まで歩いていって、そのまま座った。
理由は今でもわからない。
でも、その瞬間、場の空気が変わった。
大人たちが「あっ…」とこちらを見る。
何か“そこに座ってはいけない理由がある場所”に、幼い自分は座ってしまったらしい。
遠戚のおばさんが駆け寄ってきて、
「そこはね…」と言いかけて止まった。
表情には驚きと、なぜか少しの戸惑い。
父と母もこちらを見て、静かに苦笑いしていた。
幼い自分はただ不思議で、
「え? 何かいけないの?」と混乱した。
でも誰も怒らず、ただその場の空気が少しざわついたまま時間が流れていく。
結局“大変なこと”というのは、
座ったことでその家の儀式的な配置が崩れたのか、
家系的に“特別な席”だったのか、
あるいは単に来客が座らない席だったのか…。
子どもの記憶だから、細部は曖昧だ。
けれど、はっきり覚えているのは、
「中心に座ると、空気が動く人間なんだ」
という感覚だけだ。
その日を境に、なぜか人生の節目はいつも「中心」に関わる形で訪れた。
学校でもリーダーに選ばれやすかった。
仕事でも責任あるポジションが回ってくる。
恋愛でも気持ちが動く相手が現れると、普通の流れでは終わらず、
ドラマのような展開になることが多かった。
振り返ると、自分の人生はずっと
“中心に座ったときに何かが動く” というパターンを繰り返していた。
そして大人になった今、
SoloEat、SoloLife、SoloHealth、そしてソロハブ(SoroHabu)まで――
ひとりの経験を中心に置いた“ハブ(中心地)”をつくろうとしている。
もしかしたら、あの日の記憶は、
未来の自分への“序章”だったのかもしれない。
幼い直感で座ってしまった、あの居間の真ん中。
大人たちのざわつき。
その小さな事件は、
「あなたは中心に立つ人生を歩む」
という運命のサインだった。
ソロで生きる力、
ひとりの経験を世界へ発信する力、
そして誰かの人生を動かす力。
すべての始まりは、
あの遠戚の家の居間にあったのだ。


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