誕生日。
子どものころは、かなり特別な日だった。
ケーキがあって、プレゼントがあって、「おめでとう」と言ってもらえる。
一年に一度、自分が主役になれる日だったような気がする。
ところが大人になると、誕生日の意味は少しずつ変わってくる。
特にひとりで過ごす誕生日は、不思議な時間だ。
朝起きても、いつもと同じ部屋。
カーテンを開けても、いつもと同じ景色。
テレビをつけても、当然、自分の誕生日とは関係なく世の中は動いている。
スマホを見る。
誰かからメッセージが来ているかもしれない。
何も来ていないかもしれない。
そんな誕生日について、少し考えてみた。
誕生日だからといって世界は変わらない
誕生日の朝。
目が覚めた瞬間に、
「今日、誕生日だった」
と思い出す。
でも、外へ出れば普通の日だ。
電車はいつも通り走っている。
コンビニも普通に営業している。
会社へ行けば仕事がある。
スーパーへ行けば、みんな普通に買い物をしている。
当然なのだけれど、自分にとって一年に一度の日でも、他人にとっては365日の中の一日にすぎない。
子どものころは、この感覚がなかった。
家族が祝ってくれたから、誕生日は世界全体が少し特別になったように感じていた。
大人になって初めて、
「誕生日を特別な日にするのは、日付そのものではなく人なのかもしれない」
と思うようになった。
スマホを何度も確認してしまう
ひとりの誕生日で一番気になるのは、スマホかもしれない。
LINE。
メール。
SNS。
何か通知が来るたびに少し期待する。
「お誕生日おめでとう」
そんな短いメッセージでも、誕生日にもらうと普段よりうれしい。
逆に何も来ないと、少し寂しくなる。
普段なら誰からも連絡が来ない日があっても、それほど気にならない。
ところが誕生日だけは違う。
「誰か覚えているかな」
と期待してしまう。
期待しているから、通知がないことが気になる。
何度もスマホを開く。
画面を閉じる。
しばらくして、また見る。
自分でも、
「別に誰からも来なくてもいい」
と思っているつもりなのに、完全には割り切れない。
誕生日は人間関係を確認する日なのか
なぜ誕生日だけ、こんなに他人の存在が気になるのだろう。
考えてみると、誕生日は知らないうちに人間関係を確認する日になっているのかもしれない。
誰が覚えてくれているか。
誰が連絡してくれるか。
誰と一緒に過ごすか。
恋人がいれば、一緒に食事へ行くかもしれない。
家族がいればケーキを食べるかもしれない。
友達から連絡が来るかもしれない。
だから一人でいると、
「自分には誰もいないのではないか」
という気持ちが出てくる。
でも、それは本当に正しいのだろうか。
誕生日に連絡をくれなかったからといって、自分を嫌っているとは限らない。
単純に日付を覚えていないこともある。
仕事で忙しい人もいる。
誕生日を祝う習慣自体がない人もいる。
一日の反応だけで、人間関係全部を判断するのは少し早い。
頭では分かっている。
それでも少し寂しい。
人間の感情は、そんなにきれいに整理できない。
誰かと過ごせば幸せなのか
反対に、誰かと一緒に誕生日を過ごせば必ず幸せなのだろうか。
これも違うと思う。
恋人と一緒でも喧嘩するかもしれない。
大勢に祝われても疲れる人もいる。
SNSで何十件も「おめでとう」と言われても、心から会いたい人から一件も連絡がなければ寂しいこともある。
人数ではないのだと思う。
たった一人でも、
「この人から連絡が来てうれしかった」
と思える相手がいれば、それだけで誕生日の印象は変わる。
逆に誰にも会わなくても、自分が穏やかに過ごせれば悪い誕生日ではない。
ひとりだからできる誕生日もある
せっかく一人なら、自由に過ごせばいい。
朝寝坊してもいい。
好きなものを食べてもいい。
少し高い弁当を買ってもいい。
ひとりで外食してもいい。
映画を観てもいい。
知らない街まで電車に乗ってもいい。
何もしなくてもいい。
誕生日だから「特別なことをしなければいけない」というルールはない。
むしろ大人になった今なら、
誰にも予定を合わせず、自分のためだけに一日を使えること自体が贅沢なのかもしれない。
子どものころとは違う誕生日の楽しみ方だ。
自分で自分を祝うのは変なのか
昔なら、自分で自分の誕生日ケーキを買うのは少し寂しい気がしていた。
でも今は、別にいいと思う。
ケーキが食べたいなら買えばいい。
寿司が食べたいなら寿司でもいい。
ラーメンでもいい。
コンビニスイーツでもいい。
誰かに祝ってもらうのを待つだけではなく、
「一年間、とりあえず生きてきた」
と自分で区切りをつける。
それだけでも十分だ。
この一年、良いことばかりだったわけではない。
仕事で嫌なことがあったかもしれない。
お金に困ったかもしれない。
人間関係で傷ついたかもしれない。
好きな人とうまくいかなかったかもしれない。
何も前進していないように感じる年もある。
それでも一年が過ぎて、また誕生日まで来た。
それは一つの事実だ。
年齢が増えることがうれしくなくなった
子どものころは、年齢が一つ増えることがうれしかった。
早く大人になりたかった。
18歳。
20歳。
そんな年齢には特別な意味があった。
ところが大人になると逆になる。
40代。
50代。
誕生日が来るたびに、
「また一つ歳を取った」
と思う。
残り時間まで考えてしまう。
でも、誕生日は年齢が減っていく日ではない。
自分がここまで生きてきた時間が一年増えた日でもある。
そう考えると、少し見え方が変わる。
来年の誕生日まで何をする?
ひとりで過ごす誕生日には、一つ良いところがある。
考える時間があることだ。
去年の誕生日から今日まで何をしただろう。
何が変わっただろう。
何を失っただろう。
何を手に入れただろう。
そして、
次の誕生日までに何を一つ変えたいだろう。
大きな目標でなくてもいい。
毎日歩く。
少し貯金する。
新しい仕事に挑戦する。
ブログを続ける。
行ったことのない場所へ行く。
会いたい人に会う。
何か一つ決める。
誕生日を「過去を振り返る日」だけではなく、「次の一年を始める日」にしてしまえばいい。
ひとりの誕生日も人生の一日
結局、誕生日を一人で過ごすことは寂しいのか。
たぶん、寂しい瞬間はある。
スマホを見ても通知がないとき。
街で楽しそうな家族やカップルを見たとき。
夜、一人の部屋へ帰ったとき。
「誰かと一緒だったらな」
と思うことはあるだろう。
無理に、
「一人最高」
と思う必要もない。
寂しいなら寂しいでいい。
ただ、ひとりの誕生日だから失敗というわけでもない。
誰かに祝われた回数で、その一年の価値が決まるわけでもない。
豪華な食事がなくてもいい。
プレゼントがなくてもいい。
ケーキがなくてもいい。
静かな部屋で、
「また一年生きたな」
と思うだけの誕生日があってもいい。
そして次の日になれば、また普通の日常が始まる。
もしかすると誕生日とは、盛大に祝うためだけの日ではないのかもしれない。
これまでの一年を終えて、次の一年へ進むための小さな境界線。
そう考えると、ひとりで過ごす誕生日もそれほど悪くない。
来年の誕生日に、
「去年より少し面白い一年だった」
と思えれば十分だ。
今年の誕生日が静かだったとしても、次の一年まで静かだと決まったわけではない。
また一年。
自分のペースで生きてみよう。


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