小学校3年生のころ、ほとんど毎日のように友達の家へ遊びに行っていた。
今考えると、「毎日」というのはかなりすごい。
学校で朝から顔を合わせている。
授業を一緒に受ける。
休み時間にも遊ぶ。
そして学校が終わる。
普通なら、
「じゃあ、また明日」
となりそうなものだ。
ところが自分は、そこからさらに友達の家へ行っていた。
何か特別なイベントがあったわけではない。
豪華なおもちゃが毎日増えるわけでもない。
ただ友達の家へ行く。
遊ぶ。
夕方になったら帰る。
そして翌日になると、また行く。
そんな毎日だった。
大人になった今から見ると、あのころには不思議なくらい時間があった。
今回は、小学校3年生だった自分が毎日のように友達の家へ遊びに行っていたころのことを書いてみたい。
学校が終わっても、まだ遊びは終わらなかった
小学生のころは、学校が終わった瞬間から別の一日が始まっていたような気がする。
大人になってからの平日は違う。
仕事が終われば疲れている。
家へ帰りたい。
ご飯を食べたい。
風呂に入りたい。
そして休みたい。
ところが小学生には、学校が終わってからまだエネルギーが残っている。
ランドセルを持って帰る。
家に置く。
そして、
「遊びに行ってくる」
となる。
今考えると体力がすごい。
朝から学校にいたのに、午後からが本番だった。
なぜ毎日行っていたのだろう
改めて考えると、なぜそこまで友達の家へ行っていたのだろう。
おそらく理由は単純だ。
楽しかったから。
子どものころは、それだけで毎日同じことができた。
昨日行ったから今日はやめよう。
週に2回くらいにしておこう。
そんなことは考えない。
今日も遊びたい。
だったら行く。
それだけだ。
大人になると、何をするにも理由を考えることが増えた。
得するのか。
意味があるのか。
時間を使う価値があるのか。
お金はいくらかかるのか。
でも小学校3年生の自分には、そんな計算はなかった。
友達の家という「別世界」
子どもにとって、友達の家は面白い場所だった。
自分の家とは違う。
玄関が違う。
部屋が違う。
置いてあるものが違う。
家の匂いまで違う。
そして自分の家にはないおもちゃやゲームがある。
同じ町の中なのに、友達の家へ入るだけでちょっとした別世界だった。
大人なら他人の家へ毎日行くことにはかなり気を使う。
でも子どもの自分には、
「友達の家=遊ぶ場所」
という感覚が強かった。
何をしていたのかより、一緒にいたことを覚えている
不思議なのは、毎日何をしていたのかを全部覚えているわけではないことだ。
特定の日なら覚えていることもある。
ゲームをした。
外で遊んだ。
何かを見た。
くだらない話をした。
でも、
「○月○日はこれをした」
なんて記憶はほとんど残っていない。
それなのに、
「毎日のように友達の家へ行っていた」
という感覚だけは残っている。
記憶とは面白い。
細かい出来事は消えていくのに、そこで感じていた楽しさや空気だけが残ることがある。
子どものころの一日は長かった
小学校3年生のころの一日は、今よりずっと長かったように感じる。
学校へ行く。
授業を受ける。
給食を食べる。
午後の授業。
家へ帰る。
友達の家へ行く。
遊ぶ。
夕方になって帰宅する。
晩ご飯を食べる。
テレビを見る。
寝る。
一日の中にいろいろなことが入っていた。
今なら、
「もう夕方か」
「もう一週間終わったのか」
「もう8月か」
と時間の速さに驚く。
同じ24時間なのに、小学生のころとは時間の密度が違うように感じる。
約束なんて適当だった
今なら誰かと会う場合、LINEなどで連絡する。
「何時?」
「どこ?」
「明日は大丈夫?」
細かく確認する。
小学生のころはもっと適当だった。
学校で、
「今日遊ぶ?」
「うん」
それだけで成立することもあった。
場合によっては、ほとんど約束らしい約束もせずに行っていたかもしれない。
スマートフォンもない。
既読もない。
位置情報もない。
それでも友達と会えていた。
今から考えると、ずいぶんシンプルな人間関係だった。
毎日会っても話すことがあった
これも不思議だ。
学校でも会っている。
放課後も会う。
それなのに退屈しない。
大人になると、
「毎日会ったら話すことがなくなるんじゃないか」
と思ってしまう。
でも子どもは、話題を準備して会うわけではない。
その場で何かを始める。
ゲームをする。
外へ行く。
笑う。
ケンカすることもある。
そしてまた遊ぶ。
何か面白い話を提供しなければならない、というプレッシャーがない。
ただ一緒にいるだけで成立していた。
友達のお母さんから見たらどうだったのだろう
今になって少し気になることがある。
毎日のように来る自分を、友達の家族はどう思っていたのだろう。
また来た。
今日も来た。
そんな感じだったかもしれない。
子どもの自分はそこまで考えていなかった。
友達が、
「いいよ」
と言えば遊びに行く。
でも実際には、その家で暮らしている家族がいる。
お菓子を出してもらったこともあっただろう。
迷惑をかけたこともあったかもしれない。
大人になった今なら、その部分まで想像できる。
もし当時いつも普通に迎えてくれていたのなら、ありがたいことだったと思う。
子どもには「孤独」という言葉がなかった
今は一人で過ごすことについて考えることがある。
一人で食べる。
一人で歩く。
一人で暮らす。
Solo Logという名前で、そういう時間について文章まで書いている。
でも小学校3年生のころは、
「今日は孤独だ」
なんて考えた記憶がない。
友達と遊びたければ友達の家へ行く。
一人なら一人で何かする。
その切り替えが自然だった。
もしかすると子どものころは、「一人」と「孤独」を今ほど結びつけていなかったのかもしれない。
大人になると「毎日会う友達」はなかなかできない
今考えると、小学生の友達というのは特殊な存在だ。
ほぼ毎日学校で会う。
家も比較的近い。
同じ年代。
生活時間も似ている。
そして放課後も自由に遊べる。
大人になると、この条件をそろえるのは難しい。
友達がいても仕事が違う。
住んでいる場所が違う。
休みが違う。
家庭がある。
予定がある。
「毎日友達の家へ行く」
という生活は、ほぼ成立しなくなる。
だからこそ、あの時間は人生の中でもかなり特殊だったのだと思う。
お金がなくても毎日楽しかった
小学生だから当然、大金なんて持っていない。
高級レストランへ行くわけでもない。
旅行するわけでもない。
高価なサービスを利用するわけでもない。
それでも毎日遊べた。
友達の家へ行く。
それだけで楽しかった。
大人になると、楽しむためにお金を使うことが増える。
外食。
旅行。
買い物。
サブスク。
趣味。
もちろん、それらも楽しい。
でも小学校3年生の自分を思い出すと、
「楽しい=お金が必要」ではなかった。
これは今でも覚えておきたい感覚だ。
いつの間にか、その毎日は終わった
「今日で最後にしよう」
と決めた記憶はない。
おそらく少しずつ変わっていった。
学年が上がった。
遊ぶ相手が変わった。
興味のあるものが変わった。
生活も変わった。
そして、いつの間にか毎日遊びに行くことはなくなった。
人生には、こういう終わり方をするものが結構ある。
最後の日だと知らないまま、最後の日を迎える。
もし、
「今日がこの友達の家へ毎日遊びに行く生活の最後の日です」
と分かっていたら、当時の自分は何を思っただろう。
たぶん何も特別なことはしなかったと思う。
子どもだから、
「また遊べばいい」
と思っただろう。
何十年たっても残っている
それから長い時間がたった。
小学校3年生だった自分と、今の自分では生活がまったく違う。
仕事もする。
お金のことも考える。
将来についても考える。
インターネットもAIも使う。
当時には想像できなかった生活をしている。
それなのに、ふとした瞬間に、
「そういえば、小3のころ毎日友達の家へ行っていたな」
と思い出す。
人間の記憶は不思議だ。
大きな出来事だけが残るわけではない。
何でもない毎日の繰り返しが、何十年後まで残ることもある。
今の毎日も、いつか思い出になる
この話を書いていて思った。
小学校3年生だった当時、自分は、
「この時間は将来、大切な思い出になる」
なんて考えていなかった。
ただ遊んでいただけだ。
でも今は思い出になっている。
だったら、今の生活も同じなのかもしれない。
いつもの道を歩く。
いつもの店で食べる。
パソコンを開く。
記事を書く。
何となく一日が終わる。
今は普通すぎて価値を感じない。
でも10年後、20年後には、
「あのころ毎日こんなことをしていたな」
と思い出す可能性がある。
人生を作っているのは、大事件だけではない。
むしろ何度も繰り返した普通の日のほうが、後になって自分の人生らしく見えるのかもしれない。
まとめ|毎日遊びに行けた時間は、かなり贅沢だった
小学校3年生のころ、自分は毎日のように友達の家へ遊びに行っていた。
学校で会っているのに、放課後も会う。
そして翌日、また学校で会う。
今考えれば、すごい密度だ。
何をして遊んだのか、細かいことはかなり忘れてしまった。
それでも、
「毎日友達の家へ遊びに行っていた」
という記憶は残っている。
お金もほとんど必要なかった。
スマートフォンも必要なかった。
特別なイベントも必要なかった。
友達がいる。
遊びに行く。
楽しい。
それだけだった。
大人になった今から見ると、それはものすごくシンプルで、かなり贅沢な時間だったと思う。
そして少し面白い。
当時の自分は、毎日同じ友達の家へ行っていた。
今の自分は、一人の時間についてSolo Logを書いている。
人生はずいぶん変わった。
でも、小学校3年生の自分が教えてくれることもある。
楽しい時間は、必ずしも特別である必要はない。
同じ場所。
同じ友達。
同じような放課後。
そんな普通の日々が何十年後まで残っている。
だったら今の何でもない一日も、案外捨てたものではない。
今日という普通の日も、未来の自分から見れば、
「あのころはよかったな」
と思い出す一日なのかもしれない。


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