ときどき、小学生だったころの自分を思い出す。
教室。
校庭。
友達。
ランドセル。
放課後。
テレビゲーム。
当時は、今の自分がこんな生活をしているとは想像していなかった。
当然だ。
小学生にとって、50代なんて途方もなく遠い未来だった。
しかし実際にその年齢まで生きてみると、不思議なことに気づく。
身体は完全に変わった。
住んでいる場所も違う。
仕事もしている。
経験も増えた。
それなのに、ふとした瞬間に小学生だったころと同じ感情が出てくる。
そこで思った。
小学生だった自分と、今の自分は本当に同じ人間なのだろうか。
小学生のころの記憶は意外と残っている
何十年も前なのに、小学生時代の場面を突然思い出すことがある。
毎日覚えているわけではない。
普段は完全に忘れている。
ところが、何かをきっかけに記憶が戻ってくる。
昔遊んだゲーム。
学校までの道。
友達の家。
教室の雰囲気。
先生の顔。
当時好きだったもの。
記憶とは不思議だ。
昨日食べたものを忘れることがあるのに、何十年も前の出来事が突然鮮明に戻ってくる。
その瞬間だけは、自分が小学生だったころに戻ったような気持ちになる。
あのころは世界が狭かった
小学生のころ、自分の世界は今よりずっと狭かった。
家。
学校。
近所。
友達の家。
そのくらいで生活の大部分が完結していた。
東京も外国も、自分の日常とは遠い場所だった。
仕事のことも考えない。
老後も考えない。
税金も家賃も知らない。
明日学校で何をするか。
放課後に何をして遊ぶか。
欲しいゲームをどうするか。
そんなことが重要だった。
今から考えれば小さな世界だ。
でも、その小さな世界が当時の自分にとっては世界のすべてだった。
今は考えることが増えた
大人になると、考えることが一気に増える。
仕事。
収入。
住む場所。
将来。
人間関係。
健康。
お金。
これから何歳まで働くのか。
自分の人生をどうするのか。
小学生だったころには存在しなかった問題が、今では日常の中にたくさんある。
だから表面的には、当時の自分と今の自分はまったく違う。
同じ名前を持っているだけで、別の人間のようにも見える。
でも根本はあまり変わっていない気もする
一方で、自分の中に昔から変わっていない部分もある。
新しいものを知りたい。
面白そうなことをやってみたい。
何かに夢中になる。
大きなことを想像する。
うまくいくと嬉しい。
失敗すると落ち込む。
誰かに認められると嬉しい。
一人になればいろいろ考える。
こういう感情は、小学生のころからそれほど変わっていないのかもしれない。
対象が変わっただけだ。
昔はゲームだった。
今は仕事だったり、ブログだったり、新しい技術だったりする。
夢中になる対象は変わっても、夢中になっている自分の感覚は似ている。
大人になるとは別人になることではなかった
子どものころは、大人になれば完全な大人になると思っていた。
迷わない。
何でも知っている。
落ち着いている。
将来も決まっている。
そんなイメージがあった。
実際に大人になって分かった。
そんなことはなかった。
50代になっても迷う。
分からないことはいくらでもある。
将来を考えて不安になることもある。
新しいことを始めたいと思うこともある。
昔と同じように、
「これをやったらどうなるだろう」
と想像する。
年齢だけを見れば完全な大人だ。
しかし自分の内側には、昔の自分も普通に残っている。
記憶が自分をつないでいる
では、何をもって「同じ自分」と言えるのだろう。
身体だけを考えれば、子どものころとは大きく違う。
考え方も変わった。
知識も経験も違う。
それでも自分が小学生だった人物を、
「あれは自分だった」
と自然に思える。
その理由の一つは記憶なのだと思う。
小学校で遊んだ記憶。
失敗した記憶。
笑った記憶。
恥ずかしかった記憶。
友達と過ごした記憶。
それらが今の自分につながっている。
全部覚えている必要はない。
断片的でも、
「あのとき自分はそこにいた」
という感覚がある。
忘れてしまった自分もたくさんいる
ただ、小学生時代のすべてを覚えているわけではない。
むしろ忘れたことのほうが多い。
毎日の授業。
給食。
友達との会話。
何気なく歩いた帰り道。
そのほとんどは消えている。
もし当時の日記が毎日残っていたら、
「自分はこんなことを考えていたのか」
と驚くと思う。
今の自分が覚えている小学生時代は、当時の人生のほんの一部分なのだ。
そう考えると少し不思議だ。
昔の自分を知っているつもりでも、実はほとんど知らない。
今の自分も未来から見れば「昔の自分」
ここで逆に考えてみる。
今の自分も、10年後や20年後から見れば昔の自分になる。
今日悩んでいること。
今日食べたもの。
今日考えたこと。
今日書いたブログ。
今は重要に感じている。
しかし10年後には忘れているかもしれない。
だから記録する意味があるのかもしれない。
Solo Logを書いている理由も、そこにある。
特別な出来事だけではなく、普通の日も残す。
未来の自分が読んだとき、
「このころ、こんなことを考えていたんだな」
と思える。
ブログは誰かに読んでもらうためだけではなく、自分の時間を残す場所にもなる。
小学生の自分が今を見たらどう思う?
ときどき想像する。
もし小学生だった自分が、今の自分を見たらどう思うだろう。
「ずいぶん歳を取ったな」
と思うかもしれない。
仕事をしていることに驚くかもしれない。
パソコンを使って仕事をしていることを面白がるかもしれない。
東京で生活していることも、当時の自分にはかなり遠い世界に見えるだろう。
逆に、
「思っていた大人と違う」
と言われるかもしれない。
でも、それでいい。
人生は小学生のころに想像した通りには進まなかった。
その代わり、当時は想像できなかった経験もたくさんした。
昔の自分に何を言うだろう
もし一度だけ、小学生だった自分に会えるなら何を言うか。
「もっと勉強しろ」
と言うか。
「将来こうなるぞ」
と教えるか。
「この選択はやめたほうがいい」
と言うか。
いろいろ考えられる。
でも最後には、
「思っているより人生は長いぞ」
と言いたい気がする。
小学生にとって一年は長い。
50歳なんて永遠に来ないように感じる。
でも実際には来る。
そして50代になっても人生は終わっていない。
新しいことを考える。
新しいことを覚える。
夢を見る。
失敗する。
また始める。
そういうことは続いている。
変わった部分と変わらない部分
結局、小学生だった自分と今の自分は同じなのか。
自分の答えは、
同じでもあり、まったく違う人間でもある。
だ。
経験によって変わった。
考え方も変わった。
できることも増えた。
失ったものもある。
でも昔の自分が完全に消えたわけではない。
その上に中学生の自分が重なった。
高校生の自分が重なった。
若かった自分が重なった。
社会人になった自分が重なった。
そして今の自分になっている。
昔の自分を捨てて新しい人間になったのではない。
昔の自分を何層も抱えながら歳を取ってきた。
そんな感覚のほうが近い。
まとめ|小学生の自分は今も自分の中にいる
小学生だった自分と今の自分。
外見だけを比べれば、ほとんど別人だ。
生活も違う。
考えていることも違う。
背負っているものも違う。
それでも、昔のゲームを見て懐かしくなる。
学校の記憶を思い出す。
昔の友達のことを考える。
その瞬間、何十年という時間が一気につながる。
そして思う。
小学生だった自分は消えていない。
今の自分の中に、まだいる。
これから60代、70代になったとしても、今の自分もまたその中に残っていくのだろう。
だから今日の自分も記録しておきたい。
大事件がなくてもいい。
成功していなくてもいい。
普通の一日でもいい。
何を考えていたのかを残しておけば、未来の自分がいつか読み返すかもしれない。
そのとき、
「ああ、これも確かに自分だった」
と思えれば、それでいい。
小学生だった自分から今の自分まで、人生は一本の線というより、何人もの自分が重なり続けてできたものなのかもしれない。


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