大学生だったころの日曜日を、53歳になった今でも時々思い出す。
何か特別な出来事があった日曜日ではない。
旅行へ行ったとか、彼女とデートしたとか、大きなイベントに参加したとか、そういう記憶ではない。むしろ逆である。
何もなかった日曜日だ。
朝起きて、特に予定もない。
大学へ行く必要もない。
アルバイトが入っていなければ、一日をどう使ってもいい。
今考えると、とんでもなく自由な時間だった。
ところが当時の私は、その自由がどれほど貴重なのか、ほとんど分かっていなかった。
日曜日なのに予定がない
大学生のころは、今より時間がたくさんあった。
もちろん授業はあるし、試験もある。
レポートを書くこともある。
それでも社会人になってからの生活と比べると、自分で自由に使える時間はかなり多かったと思う。
特に日曜日。
朝起きても、
「今日はこれをしなければならない」
というものがない。
だから、何となくテレビを見たり、ゲームをしたり、部屋でゴロゴロしたりしていた。
気づけば昼になる。
昼ご飯を食べる。
そして、また何となく時間を使う。
夕方になると、
「もう日曜日が終わるのか」
と思う。
今振り返れば、ずいぶんぜいたくな一日だった。
しかし、そのときの自分に「ぜいたくな時間だぞ」と言っても、おそらく理解できなかっただろう。
ゲームをしているだけで一日が終わった
大学生のころの私はゲームもよくやっていた。
ゲームを始めると、時間はあっという間に過ぎる。
少しだけやるつもりだったのに、気づけば数時間。
今のようにブログを書くわけでもない。
SEOを考えることもない。
アクセス数を確認することもない。
将来のために何かを積み上げなければ、という意識も今ほど強くなかった。
ただゲームをする。
飽きたら休む。
またゲームをする。
そんな日曜日もあった。
当時はそれが普通だった。
「今日という一日を有効活用しなければ」
なんて、ほとんど考えていなかったと思う。
何もしなかった日は記憶に残らないと思っていた
不思議なのは、そんな何もなかった日曜日を今でも思い出すことである。
具体的な日付は分からない。
何年生だったのかも曖昧だ。
何のゲームをやっていたのかさえ、はっきりしない日もある。
それでも、部屋で一人で過ごしていた感覚だけは残っている。
外が明るかったこと。
夕方になると少し寂しくなったこと。
明日からまた大学か、と思ったこと。
そういう小さな感覚が断片的に残っている。
人間の記憶というのは面白い。
大きな出来事だけが残るわけではない。
何も起きなかった一日が、何十年後に突然よみがえることもある。
もし当時ブログがあったら
今の私はブログを書いている。
日常で起きた小さな出来事も記事にする。
仕事のことを書く。
一人で歩いたことを書く。
失敗したことも書く。
昔のことも書く。
だから最近、よく考える。
もし大学生だったころからブログを書いていたら、どうなっていただろう。
日曜日にゲームをした。
友達と話した。
一人で出かけた。
何もしなかった。
そんなことでも記録していたら、今ではかなりの量になっていただろう。
20歳前後から53歳まで続けていたら、30年以上の記録になる。
これは結構すごい。
もちろん当時は、そんな発想はなかった。
ブログというもの自体、今のような形では存在していなかった時代だ。
だから仕方がない。
それでも、昔の自分に一つだけ言えるとしたら、
「何でもいいから記録しておけ」
と言いたい。
若いころは時間が無限にあるように感じる
大学生のころは、自分が50代になることなんてほとんど想像していなかった。
30歳でさえ遠い未来だった。
まして53歳なんて、自分とは関係のない年齢に感じていた。
だから時間についても、あまり考えなかった。
来週がある。
来月がある。
来年がある。
まだ20代がある。
まだ30代がある。
そう考えると、一日くらい何もしなくても気にならない。
実際、それが悪かったとも思わない。
若い時期には、意味もなく時間を使う経験も必要だったと思う。
問題なのは、時間の価値というものは、その時間を持っている最中にはなかなか分からないことだ。
失ってから気づく。
大学生活もそうだった。
「もっと勉強すればよかった」とは思う
今振り返れば、もっと勉強しておけばよかったと思うことはある。
プログラミングでもいい。
英語でもいい。
資格でもいい。
読書でもいい。
大学生には時間があった。
あの時間を使えば、かなりのことができただろう。
一日3時間でも、年間なら1000時間を超える。
4年間続ければ大きな差になる。
ただ、それは53歳になった自分だから言えることでもある。
20歳の自分に、53歳の価値観をそのまま持たせることはできない。
だから、
「あのころはダメだった」
とまで考える必要はないと思っている。
ゲームをしていた時間も自分の人生だった
昔の時間を振り返ると、つい効率で評価したくなる。
勉強した時間は○。
資格を取った時間は○。
ゲームをしていた時間は×。
何もしなかった時間は×。
でも人生は、そんなに単純ではない。
ゲームをしていた自分も自分だ。
何もせず部屋でゴロゴロしていた日曜日も、自分の人生の一部である。
その時間があったから、今になって思い出せることもある。
全部を「無駄だった」と処理してしまうと、過去の自分まで否定することになってしまう。
私はそこまでしたくない。
「もっとできたかもしれない」
と思う一方で、
「まあ、あれはあれでよかった」
とも思う。
そのくらいがちょうどいい。
53歳の日曜日は少し違う
今の日曜日は、大学生だったころとは違う。
ブログの記事を書くこともある。
アクセスを確認することもある。
仕事について考えることもある。
これから何をするか考えることもある。
何もしないで一日を終えると、
「今日は何かできたんじゃないか」
と思うこともある。
時間が有限だという感覚が、若いころより強くなった。
だからといって、毎日を完璧に使えるわけではない。
今でもダラダラする日はある。
何もしたくない日もある。
それでいいと思う。
ただ、大学生だったころとの大きな違いは、
今日という一日は二度と戻らないと意識するようになったことだ。
昔の日曜日を思い出す理由
なぜ今になって、大学生だったころの日曜日を思い出すのだろう。
明確な理由は分からない。
今の生活の中に、昔と似た瞬間があるからかもしれない。
一人で部屋にいる。
予定がない。
外は明るい。
何をしようか考える。
そんな瞬間に、30年以上前の自分と今の自分が少し重なる。
環境は違う。
年齢も違う。
考えていることも違う。
それでも、
「今日は何をしよう」
と考えている自分は、意外と変わっていないのかもしれない。
何でもない一日こそ残しておきたい
最近は、何でもない一日もブログに残していいと思うようになった。
大成功した日だけを書く必要はない。
旅行した日だけでもない。
失敗した日。
何もなかった日。
一人で歩いた日。
家でずっと過ごした日。
昔のことを突然思い出した日。
そういう普通の日こそ、何年か後に読むと面白いかもしれない。
今日の記事もそうだ。
「大学生のころの日曜日を思い出した」
ただそれだけの話である。
しかし、今書いておかなければ、その記憶も少しずつ薄れていく。
だから残しておく。
まとめ
大学生だったころの日曜日。
ゲームをして、ゴロゴロして、特別なことを何もしないまま一日が終わる。
当時の私は、そんな日を何とも思っていなかった。
時間はいくらでもあるように感じていた。
53歳になった今では、その感覚そのものが懐かしい。
もっと勉強しておけばよかった。
もっといろいろな場所へ行けばよかった。
もっと記録しておけばよかった。
そう思うことはある。
でも、過去は変えられない。
変えられるのは、今日から先だけだ。
だから今は、何でもない一日でもできるだけ記録しておきたい。
今日の自分にとって普通の一日が、30年後の自分にとっては懐かしい一日になるかもしれない。
大学生だったころの日曜日を今でも時々思い出す。
そう考えると、何も起きなかった今日だって、いつか思い出す一日になるのかもしれない。


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