大人になった今、アイスを食べることはそれほど特別な出来事ではない。
コンビニへ行けば買える。スーパーの冷凍ケースにはたくさんの種類が並んでいる。自分のお金で買えるから、今日食べて、また明日食べることだってできる。
ところが、昔を思い出すと少し違う。
子どものころの夏に食べた一本のアイスは、今よりずっと価値があったように感じる。
暑い中を遊び回って家に戻り、冷凍庫から出してもらったアイス。それだけでうれしかった。
値段が高かったわけではない。
豪華だったわけでもない。
それでも特別だった。
なぜ、あのころはアイス一本であんなに幸せになれたのだろう。
夏の日はとにかく外で遊んでいた
子どものころの夏を思い出すと、まず暑さが浮かんでくる。
朝から外へ出て、友達と遊ぶ。
自転車に乗ったり、走ったり、汗だくになったりする。
今なら暑い日は涼しい部屋で過ごしたいと思うことも多いが、子どものころは違った。
暑くても遊びたかった。
夢中になっている間は、暑ささえあまり気にしていなかったのかもしれない。
そして、たっぷり遊んで家に帰る。
そこで冷たいアイスが待っている。
その瞬間がうれしかった。
冷凍庫の中をのぞく楽しみ
冷凍庫にアイスがあると分かっている日は、それだけで少し楽しみだった。
扉を開ける。
冷たい空気が顔に当たる。
中を探す。
そしてアイスを見つける。
「あった」
ただそれだけなのにうれしい。
何種類か残っていれば、今度はどれを食べるか考える。
お気に入りが残っているか確認する。
昨日食べなかったものにするか迷う。
好きなアイスがなくなっていると、
「誰か食べたのか」
と残念に思う。
大人なら、また買えばいい。
でも子どもの自分にとって、その一本はもっと大きな存在だった。
好きなときに買えなかったから特別だった
子どもには自由に使えるお金がほとんどない。
アイスが食べたいと思っても、いつでも自分で買いに行けるわけではなかった。
家に買ってある。
親に買ってもらう。
出かけたときに買ってもらえる。
そういう機会を待つ必要があった。
今振り返れば、その「自由に手に入らない」という状況こそ、アイスを特別なものにしていたのかもしれない。
当時はそんな分析などしない。
ただ、
「アイスある?」
と聞いて、あるとうれしかった。
それだけだった。
店で一個を選ぶのも真剣だった
家の冷凍庫から取り出すアイスとは別に、店で買うアイスにも特別感があった。
冷凍ケースの中を見る。
いろいろな商品がある。
どれにするか決めなければならない。
使えるお金には限りがある。
今日は一個だけ。
そうなると選ぶのも真剣になる。
買って食べてから、
「やっぱり別のにすればよかった」
と思うこともある。
反対に、おいしいアイスを選べれば、それだけで得をしたような気分になった。
金額は小さかった。
しかし、選ぶときの真剣さは今より大きかったように思う。
友達と一緒に食べた夏
外で遊んでいる途中、友達とアイスを食べることもあった。
それぞれが違うものを選ぶ。
相手のアイスを見る。
「それ、おいしい?」
そんな話をする。
アイスだけを思い出しているつもりでも、その周囲にはいろいろなものが一緒に残っている。
友達の顔。
自転車。
夏の強い光。
セミの声。
汗。
冷たいアイス。
一つだけ取り出せば何でもないものばかりだ。
でも、それらが一緒になると、自分の中の「昔の夏」になる。
溶けていくことさえ思い出になった
暑い日に外でアイスを食べれば、当然すぐに溶ける。
ゆっくり食べていると、手のほうまで垂れてくる。
だから急いで食べる。
ところが急いで食べると冷たすぎる。
頭がキーンとする。
少し休む。
そうしている間にもまた溶ける。
今ならティッシュを用意して、服を汚さないように気をつけるかもしれない。
子どものころは、そこまできれいに食べることばかり考えていなかった。
服に落としてしまったこともあったかもしれない。
そんなことまで含めて夏だった。
当たりがあるだけで大イベントになった
当たり付きのアイスなら、最後まで別の楽しみが残っている。
食べ終わったあと、棒を見る。
何か書いてあるか確認する。
外れ。
少し残念。
でも次がある。
もし当たりが出れば、もう一本もらえる。
一本食べ終わったのに、さらに一本。
子どもにとってはかなり大きな出来事だった。
大人の金銭感覚で見れば小さな話でも、当時の自分にとっては違う。
「もう一本もらえる」という事実だけで十分うれしかった。
「買っていいよ」がうれしかった
出かけた先で、
「アイス買っていいよ」
と言われる。
この一言も特別だった。
スーパーでも商店でもいい。
すぐに冷凍ケースへ行く。
そして選ぶ。
何にしよう。
今日はこれにするか。
やっぱりこっちにするか。
大人から見れば数分で終わる買い物だったと思う。
しかし子どもにとっては、その日の小さなイベントだった。
夏休みだから、さらにおいしかった
同じアイスでも、夏休みに食べると何となく違った。
朝から遊ぶ。
昼ごはんを食べる。
午後も遊ぶ。
暑くなってアイスを食べる。
それでも一日はまだ終わらない。
夕方まで時間がある。
学校へ行く必要もない。
明日も休みだ。
そんな夏休みの空気まで一緒に食べていたような気がする。
だから、記憶に残っているのは味だけではないのだろう。
大人になって自由になったのに
今は、自分で好きなアイスを買える。
誰かの許可はいらない。
一個だけでなく、何個かまとめて買うこともできる。
少し高い商品を選ぶことだってできる。
子どものころより、ずっと自由だ。
それなのに不思議なことに、ワクワクする気持ちは昔ほど大きくない。
これはアイスだけではないと思う。
お菓子もそうだ。
ゲームもそうだ。
ジュースや外食もそうかもしれない。
子どものころ憧れていたものを、大人になると自分で手に入れられる。
ところが簡単に手に入るようになると、以前ほど特別ではなくなる。
本当の価値は値段ではなかった
昔食べていたアイスは、決して高価なものではなかった。
それでも価値があった。
たまに食べる。
暑い日に食べる。
外で遊んだあとに食べる。
家族に買ってもらう。
友達と食べる。
そうした条件が重なって、一本のアイスを特別なものにしていた。
大人になって高価なものを買えば、必ず昔以上に幸せになるわけではない。
値段とは別のところに、楽しさがあったのだと思う。
待っている時間も楽しみだった
昔は何かを待つことが多かった。
夏休みを待つ。
誕生日を待つ。
クリスマスを待つ。
欲しいゲームを買ってもらえる日を待つ。
そしてアイスを食べられる機会も待つ。
好きなときに何でも手に入るわけではない。
だからこそ、その日が来るとうれしかった。
今は便利になった。
ネットで注文すれば商品が届く。
動画も音楽もすぐ楽しめる。
便利になったこと自体は間違いなく良い。
ただ、何かを待っている間に感じたワクワクは、以前より少なくなった気もする。
大事件ではないのに覚えている
何年の夏だったのか。
何月何日だったのか。
そこまでは覚えていない。
食べたアイスの種類さえ、はっきりしないものもある。
それでも風景は残っている。
暑い夏。
家の冷凍庫。
一本のアイス。
食べたあとの満足感。
人生を変えるような出来事ではない。
旅行へ行った話でもない。
何かの賞を取ったわけでもない。
ただアイスを食べただけだ。
それでも何十年たって思い出すことができる。
記憶とは不思議なものだ。
覚えているのは味よりも、その日の空気
昔のアイスの味を正確に説明するのは難しい。
ところが、そのときの周囲の様子は意外と浮かんでくる。
外から聞こえるセミ。
テレビの音。
夏の明るい光。
遊んで汗をかいた体。
冷たいものを食べたときの気持ちよさ。
もしかすると、食べ物の記憶というのは味だけではないのかもしれない。
そのとき自分がどんな場所にいて、どんな時間を過ごしていたのか。
そこまで含めて残っているのだと思う。
同じものを食べても、あの夏には戻れない
もし昔とまったく同じアイスが今売られていたら、食べてみたい。
買って家へ持ち帰る。
袋を開ける。
一口食べる。
きっと「懐かしい」と感じる。
しかし、あのころと完全に同じ気持ちにはならないだろう。
変わったのはアイスではなく、自分だからだ。
昔の家。
一緒に遊んだ友達。
長く感じた夏休み。
何をするにも時間がたくさんあった午後。
それらを全部取り戻すことはできない。
同じ味を再現できても、同じ夏は再現できない。
だから思い出の中の一本は特別なままなのだろう。
今の普通の日も、いつか懐かしくなる
昔のことを考えていると、今の生活にも同じことが言える気がしてくる。
毎朝飲んでいるもの。
よく行くコンビニ。
近所を歩く道。
夜にスマートフォンを見る時間。
いつもの食事。
今は何とも思わない。
しかし20年後には、それらを懐かしく感じている可能性がある。
子どものころの自分だって、
「このアイスのことを何十年後に思い出すだろう」
などとは考えていなかった。
価値は、時間がたってから分かることもある。
小さなことで喜べたことも豊かさだった
大人になると、豊かさを大きなもので考えることが増える。
高価な商品。
豪華な食事。
大きな家。
もちろん、それも豊かさの一つだと思う。
でも昔の自分を思い出すと、別の形もあった。
一本のアイスでうれしくなる。
友達と遊ぶだけで一日が楽しい。
夏休みが始まっただけで興奮する。
遠くへ行かなくても、特別なものがなくても楽しめる。
小さな出来事を大きく喜べた。
それも一つの豊かさだったのかもしれない。
昔の自分にアイスを渡せるなら
もし一日だけ昔へ戻れるなら、夏の午後へ行ってみたい。
遊び疲れた子どもの自分がいる。
そこへアイスを一本持っていく。
「これ、食べていいよ」
そう言えば、きっと喜ぶ。
食べ終われば、また友達のところへ走っていくだろう。
未来のことなど考えていない。
何十年後の人生も知らない。
今日の夕方まで何をして遊ぶか。
そのくらいしか考えていない。
でも、それで十分だった。
まとめ|一本で満足できた夏があった
子どものころ、アイス一本が大きな楽しみだった。
冷凍庫に入っているとうれしい。
店では真剣に一個を選ぶ。
友達と一緒に食べる。
溶けないように急いで食べる。
食べ終わったら当たりがないか確認する。
そして、また遊び始める。
今なら簡単に買える。
それでも昔ほど特別には感じない。
おそらく懐かしいのは、アイスだけではない。
夏休みがあり、友達がいて、家族がいて、一日がとても長く感じられた。
そして何より、小さなことを素直に楽しめた自分がいた。
高いものだったから大切だったのではない。
いつでも好きなだけ手に入るものではなく、食べられる瞬間を楽しみに待っていたからこそ、一本に価値があった。
夏の暑い午後に食べた、たった一本のアイス。
今でもその風景を思い出せるなら、それは十分に大切な子ども時代の記憶だったのだと思う。


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