今のゲームでは、途中経過を保存できることが当たり前になった。
オートセーブもある。
ゲームを終了しても、次に起動すれば続きから遊べる。
少し失敗しても直前からやり直せる。
とても便利だ。
しかし子どものころを思い出すと、そうではないゲームもあった。
電源を切れば終わり。
次に遊ぶときは、また最初から。
何時間遊んでいても関係ない。
それなのに、自分は何度も遊んだ。
同じ最初のステージ。
同じ敵。
同じ場面。
何度も何度も繰り返した。
今考えると、
よく飽きなかったな
と思う。
しかし当時は、それが普通だった。
そして何度も最初から遊ぶこと自体が、ゲームの楽しさの一部になっていた。
- 電源を切ったら全部終わり
- 最初のステージだけ異常にうまくなる
- 同じところで何度も失敗した
- 「もう一回」が何十回も続いた
- 一つ先のステージを見るだけでうれしかった
- 友達のほうが先へ進んでいた
- 上手な友達を見るだけでも楽しかった
- 攻略法を体で覚えていた
- ゲームオーバーが本当に怖かった
- 最初へ戻ることが苦痛ではなかった
- 一本のゲームを長く遊んだ
- 攻略情報も簡単には手に入らなかった
- 知らないからこそ先へ行きたかった
- 初めて遠くまで進んだ日は特別だった
- クリアした人は本当にすごかった
- 便利になったゲーム
- 不便だったから覚えているのかもしれない
- 「失敗した時間」は無駄ではなかった
- 大人になると最初からやり直すのが面倒になる
- 何度でも最初から始められたころ
- まとめ|ゲームにはセーブできなくても、自分には残っていた
電源を切ったら全部終わり
セーブできないゲームは単純だった。
遊び始める。
ステージを進む。
敵を倒す。
失敗する。
ゲームオーバーになる。
そして、
最初へ戻る。
途中まで進んだからといって、次の日にそこから再開できるわけではない。
夕方になって親から、
「もうゲームやめなさい」
と言われれば終了。
電源を切る。
今日進めたところまでの記録は残らない。
次の日。
また最初から始める。
今なら、
「せめて途中からやらせてくれ」
と思うかもしれない。
しかし当時は、それほど不満に思わなかった。
そういうゲームなのだと思っていた。
最初のステージだけ異常にうまくなる
何度も最初から遊ぶので、当然ながら序盤だけはどんどん上手になる。
最初は苦戦した敵も簡単に倒せる。
どこから敵が出てくるか覚えている。
どこでジャンプすればいいか分かる。
危険な場所も覚える。
最初は慎重に進んでいたステージを、いつの間にかスイスイ進めるようになる。
子どもながらに、
「俺、うまくなったな」
と思った。
レベルアップの表示はない。
経験値もない。
しかし、
ゲームの中のキャラクターではなく、自分自身がレベルアップしていた。
同じところで何度も失敗した
もちろん、簡単には先へ進めない。
毎回同じ場所でやられることもある。
「ああ、またここだ」
と思う。
もう少しだった。
あと一歩だった。
次なら行ける。
そしてまた最初から。
序盤を進む。
中盤へ行く。
問題の場所まで戻ってくる。
緊張する。
そしてまた失敗。
ゲームオーバー。
今ならそこで嫌になりそうだ。
しかし子どものころは、
「もう一回」
となった。
「もう一回」が何十回も続いた
ゲームには不思議な力があった。
失敗しても、
「あと一回だけ」
と思う。
その一回が終わる。
また、
「もう一回」
となる。
気がつけば何度も遊んでいる。
同じ画面を見ている。
同じ音を聞いている。
同じ敵を倒している。
それでも退屈しなかった。
なぜだろう。
おそらく毎回、
「今度こそ先へ行けるかもしれない」
という期待があったからだ。
一つ先のステージを見るだけでうれしかった
何度も失敗した場所を初めて突破したとき。
その先には、今まで見たことのない画面が出てくる。
背景が違う。
敵が違う。
音楽が違う。
それだけで興奮した。
今ならゲーム動画を検索すれば、最後のステージまで簡単に見ることができる。
しかし当時、自分が到達していない場所は本当に未知の世界だった。
だから、
一画面先へ進むことにも価値があった。
「ここから先はどうなっているんだろう」
その答えを見るには、自分でそこまで行くしかなかった。
友達のほうが先へ進んでいた
友達と同じゲームを持っていると、
「どこまで行った?」
という話になる。
自分は3面。
友達は5面。
「5面ってどんなところ?」
と聞く。
友達が説明してくれる。
でも実際に見てみたい。
家へ帰ってゲームを始める。
また1面からだ。
友達が到達した場所を目指す。
これもモチベーションになっていた。
攻略動画などなくても、友達との会話が攻略情報だった。
上手な友達を見るだけでも楽しかった
自分では行けない場所まで進める友達がいた。
友達の家で、その人がゲームをしているのを見る。
「そこ、どうやったの?」
と思う。
難しいところを簡単に突破する。
自分が何度もやられた敵を普通に倒す。
それだけで、
「すごい」
となった。
ゲームの腕前が、子ども同士ではちょっとした特技だった。
翌日、自分でも同じ方法を試す。
また最初から始めて。
攻略法を体で覚えていた
セーブできないゲームでは、知識だけでは足りない。
タイミングを覚える。
敵の動きを覚える。
ボタンを押す感覚を覚える。
何度も繰り返すことで体が覚える。
最初は考えながら操作していた場所でも、いつの間にか自然に動けるようになる。
今思えば、かなり真面目に練習していた。
ゲームなのに、
反復練習
をしていたわけだ。
でも本人には練習している意識などない。
ただ遊んでいた。
ゲームオーバーが本当に怖かった
かなり先まで進んだときほど緊張した。
ここで失敗したら最初から。
残りのチャンスが少ない。
慎重になる。
手に力が入る。
いつもなら簡単に通過できるところで失敗することもある。
そしてゲームオーバー。
画面を見ながら、
「うわー……」
となる。
何十分、場合によっては何時間というプレイが終わる。
今の感覚なら相当厳しい。
でも、少し休んだらまた始める。
最初へ戻ることが苦痛ではなかった
これは今振り返ると不思議だ。
現在の自分なら、
「また最初から?」
と思ってしまうだろう。
しかし当時は、最初へ戻されること自体をそれほど苦痛に感じていなかった。
むしろ序盤は自分が上手になっているので気持ちいい。
以前苦戦していた場所を簡単に突破する。
そして、
「今回は行けそうだ」
と思う。
同じゲームなのに、毎回少し違った。
違っていたのはゲームではなく、自分だったのかもしれない。
一本のゲームを長く遊んだ
子どものころは、次から次へとゲームを買えるわけではなかった。
一本買ってもらったら、その一本を長く遊ぶ。
クリアできなくても遊ぶ。
最初から遊ぶ。
また失敗する。
また遊ぶ。
だからゲーム一本から得ていた遊び時間はかなり長かったと思う。
今なら大量のゲームから選べる。
少し合わなければ別のゲームへ移ることも簡単だ。
昔は選択肢が少なかった。
でも、その少なさが一つのゲームと長く付き合う理由になっていた。
攻略情報も簡単には手に入らなかった
分からないところがあっても、すぐ答えを検索できない。
攻略本があれば読む。
友達に聞く。
自分で試す。
何度も失敗する。
偶然うまくいく。
そして、
「こうすればいいんだ!」
と発見する。
自分で見つけた攻略法は忘れなかった。
苦労して覚えたからだと思う。
知らないからこそ先へ行きたかった
ゲームの最後がどうなっているのか知らない。
全部で何面あるのかすら分からないこともある。
「まだ続くのかな」
「これが最後かな」
そんな状態で進める。
情報が少なかったから、先が気になった。
もし最初から最後まで動画で見ていたら、同じ気持ちにはならなかったかもしれない。
未知だったから、自分で到達したかった。
初めて遠くまで進んだ日は特別だった
ある日、いつもより調子がいい。
序盤をほとんど失敗せず進む。
いつもの難所も突破。
さらにその先へ行く。
「今日、すごいぞ」
となる。
今まで見たことのないステージへ到達する。
その日はゲームをやめたくない。
でも夕食の時間が来る。
親から呼ばれる。
「ちょっと待って!」
と言いたくなる。
セーブできない。
電源を切ったら終わりだ。
あの焦りも、今では懐かしい。
クリアした人は本当にすごかった
セーブなしで最後まで行く。
これは子どもにとって大きなことだった。
途中で何度も失敗する可能性がある。
集中力も必要だ。
ゲームの内容を覚える必要もある。
だから、
「○○君、あれクリアしたらしいよ」
というだけで、
「すげえ」
となる。
ゲームをクリアすること自体が一つの成果だった。
便利になったゲーム
もちろん、昔の方式に戻したほうがいいとは思わない。
今のゲームは長い。
何十時間、何百時間遊ぶものもある。
セーブなしでは現実的ではない。
オートセーブも便利だ。
忙しい大人なら、短時間だけ遊んで続きは翌日という遊び方ができる。
昔より遊びやすくなった。
これは間違いなく進歩だと思う。
それでも、ときどき昔のゲームを思い出す。
不便だったから覚えているのかもしれない
便利なものは快適だ。
しかし、不便だったものほど記憶に残っていることがある。
ゲームオーバーになった。
最初へ戻された。
また挑戦した。
また失敗した。
何度も同じ場所を通った。
だからステージの形まで覚えている。
音楽まで覚えている。
敵が出てくる位置まで覚えている。
何十年たっても記憶に残っている。
不便さそのものが、思い出を濃くしていたのかもしれない。
「失敗した時間」は無駄ではなかった
当時、何度ゲームオーバーになっただろう。
数えたことはない。
何十回。
ゲームによっては何百回かもしれない。
結果だけ見れば失敗だ。
しかし、その失敗のたびに少し上手になった。
次はここでジャンプする。
この敵には近づかない。
ここでは焦らない。
失敗が次のプレイに残る。
データとしては何もセーブされていない。
しかし、
自分の中には経験がセーブされていた。
考えてみれば、面白い。
ゲーム機には記録が残らない。
でもプレイヤーには残る。
大人になると最初からやり直すのが面倒になる
大人になると時間を効率的に使おうとする。
同じことを何度も繰り返すと、
「時間がもったいない」
と思うことがある。
ゲームでも同じだ。
できれば失敗した直前から再開したい。
攻略法が分からなければ検索する。
効率よく先へ進みたい。
それ自体は悪いことではない。
時間には限りがある。
しかし子どものころは、効率などほとんど考えていなかった。
今日クリアできなくてもいい。
また明日やればいい。
その感覚があった。
何度でも最初から始められたころ
もしかすると、自分が懐かしく感じているのはゲームそのものだけではない。
何度でも最初からやり直すことを面倒だと思わなかった自分
なのかもしれない。
失敗する。
最初へ戻る。
また始める。
昨日と同じところを通る。
それでも楽しい。
子どもには時間がたくさんあるように感じられた。
一日も長かった。
夏休みなど永遠に続くように感じた。
だから最初からやり直すことも、一つの遊びだった。
まとめ|ゲームにはセーブできなくても、自分には残っていた
昔、セーブできないゲームを何度も遊んだ。
電源を切れば最初から。
ゲームオーバーでも最初から。
昨日どれだけ進んでも、今日また最初から。
それでも遊んだ。
何度も遊んだ。
そして少しずつ上手になった。
ゲーム機には昨日の記録など残っていない。
しかし自分は覚えていた。
敵が出る場所。
ジャンプするタイミング。
危険な場所。
昨日失敗した理由。
だから今日の自分は、昨日より少し先へ行けた。
今のゲームのような便利なセーブ機能はなかった。
それでも、本当はちゃんとセーブされていたのだと思う。
ゲーム機の中ではなく、
遊んでいた自分の中に。
何度ゲームオーバーになっても、またスタートボタンを押した。
何度最初へ戻されても、
「もう一回」
と思えた。
あのころは、それだけで何時間でも遊べた。
セーブできなかったからこそ、何度も通った最初のステージ。
そして何度も繰り返したからこそ、今でも覚えている。
ゲームのデータは残らなかった。
でも、あのころ遊んだ時間は、何十年たった今でも自分の中に残っている。


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