小学校3年生の頃、知能テストを受けたことがあります。
ずいぶん昔の話です。
細かい問題の内容までは、もう覚えていません。
ただ、一つだけ今でも記憶に残っていることがあります。
その知能テストで、自分が一番だったことです。
子どもの頃の出来事なので、今となっては正確な点数も分かりません。
どんな基準で評価されたのかも覚えていません。
それでも、「一番だった」と知ったときのことは、不思議と記憶の中に残っています。
人生を何十年も生きてきた今、あの出来事をどう考えるのか。
今回は少し昔に戻って、自分自身のことを書いてみます。
小学校3年生だった自分
小学3年生といえば、まだ9歳くらいです。
将来の仕事なんて考えていません。
大学に行くことも、会社で働くことも、その先にどんな人生が待っているのかも分からない。
毎日学校へ行って、友達と遊んで、家に帰る。
そんな普通の小学生でした。
その頃、学校で知能テストを受けました。
国語や算数のテストとは少し違います。
知識そのものを問うというより、図形や規則性などを考えるような問題があった記憶があります。
私は特別な準備をしていたわけではありません。
塾で対策したわけでもない。
普通に問題を解いただけでした。
そして後になって、自分の結果が一番だったと知りました。
「自分は頭がいいのかもしれない」と思った
子どもなので、難しいことは考えません。
一番だった。
それなら、
「自分は頭がいいのかもしれない」
と思います。
うれしかった。
それは間違いありません。
テストで100点を取るのもうれしいですが、「一番」という言葉には特別な響きがあります。
運動会で一番。
ゲームで一番。
テストで一番。
子どもにとって順位は分かりやすいものです。
当時の私は、その結果をかなり素直に受け止めていました。
でも、それで人生が決まったわけではなかった
今振り返ると、ここが面白いところです。
小学3年生で知能テストが一番だった。
だから、その後の人生がずっと順風満帆だったのか。
そんなことはありません。
学校生活ではうまくいかないこともありました。
勉強でも、何でも簡単にできたわけではありません。
大人になってからは、さらに複雑です。
仕事。
お金。
人間関係。
恋愛。
将来。
一つのテストでは測れない問題ばかり出てきます。
社会に出ると、
「頭がいいだけではどうにもならない」
と思う場面がたくさんあります。
知能テストと学校の成績は同じではない
子どもの頃は、
「頭がいい=勉強が全部できる」
くらいに考えていました。
でも実際には、そんなに単純ではないと思います。
テストで点数を取るには、知識を覚えることも必要です。
授業を聞く。
宿題をする。
試験範囲を勉強する。
継続する。
こうしたことも大切です。
一方、知能テストは学校の教科テストとは目的が違います。
だから、小学3年生のときに良い結果だったからといって、その後の学力や人生まで保証されるわけではありません。
今なら当たり前に分かります。
でも当時の私は、
「一番だった」
という事実だけがうれしかったのです。
大人になると「一番」の意味が変わる
小学生の世界では、一番は分かりやすい。
でも大人になると、何をもって一番とするのか分からなくなります。
年収なのか。
会社での役職なのか。
学歴なのか。
仕事の能力なのか。
幸せなのか。
友人の多さなのか。
家族なのか。
どれも単純には順位をつけられません。
年収が高くても悩んでいる人はいるでしょう。
有名な会社で働いていても、毎日つらい人もいるかもしれない。
逆に、大きな肩書がなくても、自分の好きな生活をして満足している人もいる。
人生は知能テストのように、最後に順位表が配られるものではありません。
それでも、あの結果は自信の小さな種になった
では、小学3年生の知能テストで一番だったことに意味はなかったのか。
私はそうは思いません。
少なくとも自分の中には、
「自分には何か考える力があるのかもしれない」
という感覚が残りました。
人生がうまくいっているときには、それほど思い出しません。
むしろ、うまくいかないときに思い出すことがあります。
「昔、そんなこともあったな」
と。
もちろん、昔のテスト結果だけを根拠に、
「自分は何でもできる」
と考えるのは違うと思います。
でも逆に、
「自分には何の能力もない」
と決めつける必要もない。
その間くらいに、あの記憶があります。
得意なことと苦手なことは同時に存在する
人間は不思議です。
あることは簡単にできる。
別のことは何度やってもうまくいかない。
私は長く生きてきて、それを何度も経験しました。
だから、
「頭がいい人」
「頭が悪い人」
という二つだけに人間を分けるのは無理があると思っています。
文章を考えるのが得意な人。
数字に強い人。
人の気持ちを読むのが得意な人。
機械に強い人。
体を動かすのが得意な人。
初対面の人とすぐ仲良くなれる人。
一人で長時間集中できる人。
能力にはいろいろあります。
小学3年生の知能テストは、その中の一部分を測ったものだったのでしょう。
何十年後も「考えること」は好きだった
振り返ってみると、私は今でも何かを考えることが好きです。
「もしこうだったら?」
「なぜこうなる?」
「別の方法はないか?」
そんなことを考えます。
一つのテーマから、別のアイデアを作る。
自分なりの仮説を立てる。
試してみる。
失敗したらまた考える。
小学生の頃の知能テストと直接関係があるかは分かりません。
でも、考えること自体を面白いと思う部分は、昔からあったのかもしれません。
過去の結果だけでは何も変わらない
一方で、厳しいことも感じます。
小学3年生で一番だった。
それだけでは、現在は何も変わりません。
過去の結果は、過去の結果です。
大切なのは、
今、何をしているか。
そして、
これから何をするか。
昔スポーツが得意だったとしても、何十年も運動しなければ体力は落ちます。
昔勉強が得意だったとしても、何も学ばなければ知識は古くなります。
考える力も同じでしょう。
使わなければ鈍る。
新しいものに触れれば、また鍛えられる。
だから私は、昔の一番を「勲章」にして終わらせるより、「まだ考えてみよう」と思う材料にしたいです。
50代でも頭は使える
年齢を重ねると、
「もう若くない」
と思うことがあります。
新しい技術が次々に登場する。
若い人が新しいサービスを作る。
知らない言葉も増えていく。
そうすると、
「今から始めても遅いかな」
と思う瞬間があります。
でも、小学3年生だった自分を思い出すと、少し考え方が変わります。
あの頃は何も持っていませんでした。
経験もない。
専門知識もない。
ただ、目の前の問題を考えていただけです。
だったら今も同じことはできる。
分からなければ調べる。
考える。
試す。
失敗する。
また考える。
年齢が上がったからといって、この繰り返しまでやめる必要はありません。
AI時代だからこそ、自分で考える
今はAIがあります。
分からないことを聞けば、すぐに答えが返ってきます。
文章も作れる。
計算もできる。
プログラムも作れる。
昔とはまったく違う時代です。
だからこそ私は、
「自分で考える必要がなくなる」
のではなく、
「何を考えるかがもっと重要になる」
と思っています。
AIに何を聞くのか。
返ってきた答えをどう使うのか。
本当に正しいのか。
別の方法はないのか。
最後に判断するのは人間です。
小学3年生の頃に受けた知能テストとはまったく違いますが、「考える」という部分ではつながっている気がします。
今、一番になりたいものは何だろう
昔の私は知能テストで一番になりました。
自分から狙ったわけではありません。
結果として一番だった。
では今はどうだろう。
何かで一番になりたいのか。
昔と違って、今なら自分で目標を決められます。
ブログでもいい。
仕事でもいい。
新しいサービスを作ることでもいい。
あるいは誰かと競争しなくてもいい。
昨日の自分より少し前に進む。
それも一つの「一番」なのかもしれません。
まとめ|小学3年生の自分から、今の自分へ
小学3年生のとき、私は知能テストで一番でした。
何十年も前の、小さな出来事です。
それで人生が決まったわけではありません。
成功が約束されたわけでもありません。
その後には、うまくいったことも、うまくいかなかったこともたくさんありました。
でも今でも、その記憶は残っています。
なぜ覚えているのか。
たぶん、
「自分にも何かできるかもしれない」
と初めて感じた出来事の一つだったからだと思います。
昔の結果にしがみつくつもりはありません。
でも、完全に忘れる必要もない。
過去の小さな成功を、これから動くための材料にすればいい。
9歳だった自分が問題用紙を前にして考えていたように、今の自分も目の前の問題を一つずつ考えていく。
人生には、まだ答えの分からない問題がたくさんあります。
そして、その問題を考える時間は、まだ終わっていません。


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